アフガニスタン情勢とか

みんなあんまり知らないと思うから、あえて自己宣伝と思われてもいいや、と思って書くんだけど、いまのアフガニスタンの情勢、知ってる?

タリバンとかいうイスラム原理主義の勢力が、ずっと米軍とかに虐げられてたんだけど、米軍が撤退、ってなったら、ものすごい勢いで勢力を拡大し。いまやアフガニスタン全土を掌握する勢いで。(勢いがたびたび重なってるけど、許してちょ)

で、タリバンって、日本の我々からすると、完全に女性差別、女性蔑視なのよ。女の子は10代後半になると、強制的に「結婚させられる」わけ。結婚させられるというと聞こえはいいけど、要するに男の奴隷だよね。やられるだけやられて、子どもを産まされて…

僕の基準がtwitterだから、これをお読みの善男善女のみなさまに比べると、かなりぶっ飛んでると思うけど、でも、例のメンタルなんちゃらの暴言に怒ってる人は多いけど、アフガニスタンのタリバンの前時代性、非人道っぷりに怒ってる人は、そう多くない、気がする。

今日も大雨のなか、聖教新聞を鼻歌を歌いながら配りながら、思ってたこと。
公明党って「小さな声を聞く力」っていうのがウリだけど、オレに言わせれば、「身近な声を聞く力」じゃないかなって、思う。

創価学会の女性部(旧婦人部)のおばちゃんとかを介したクレームとか意見とか嘆願とか依頼とか●●とか××とかにはビビッドにすぐに動くけど(しかも、具体的かつ守備範囲ならば)、そうじゃない、もっと大きな枠組みの話とか、自分の守備範囲じゃねーな、と窓口たる地方議員が思ったことに関しては、ぜんぜん動かないよね。身近な市会議員とかを見てて思うけど。

おれはそれを、どうにか自分の力で、変えようと思ってる。画像処理とかに詳しい人なら伝わる喩えでいうと、トーンカーブをちょいと持ち上げようかなと。

よく、創価学会の先輩(幹部)に、お前は境涯が低すぎる。器が小さすぎる!って、よく怒られるんだけど、身近な人たちとの付き合いは、たしかに下手かもしれない。根回しとか交渉ごととか相手の気持ちになって考えるとか、大の苦手。

こないだfbに「境涯なんて低いままでいいんだ」って書いたら、怒り狂った先輩(幹部)の方が、怒り狂って電話をかけてきたんだけど、そのときに、こっちからも言わなきゃ、と思って、●●さん、マンゴーって、なんで美味しいか知ってますか?って聞いたら、怒り狂ったトーンのまま、そんなの知らねーよ、お前はそんなことを言ってるから、折伏が決まらねーんだよ、ってさんざんドヤされたんだけど、僕が伝えたかったことは、そんなに難しいことじゃなくてね、

マンゴーがなんで美味しいかっていうと、マンゴーは、マンゴーの境涯で、精一杯に、この宇宙の生命哲学を、自分と縁した人に、精一杯、伝えようとしてるんだよ。

まったく別の言い方をすると、「だれかの幸せのために、自分の命をすべてなげだしてもいい」ってことね。僕はアジとかイワシとか、ミカンとかハクサイとか、リンゴとかキュウリとか、レタスとか、ゴボウとか、トマトとか、牛肉とか豚肉とか鶏肉とか、とにかくありとあらゆる食材を「いただき」ながら、いつも同じことを考えてるよ。

いろんな人に同じ話をしてるんだけど、なかなか伝わらないんだよな。たぶん、釈迦や日蓮大聖人も、同じことでたっぷり悩まれたことだろう。

命っていうのは、みんなつながってて、有限なんかじゃない、無限なんだよ。空間的にも、時間的にも。そして文字どおり、支え合って生きてる。言葉だけじゃないんだ。

むかし飲み友だちの石渡浩一さんと、なんでイヌは信心しなくていいのか、っていう話を7年くらい前に三山車庫の居酒屋「あじよし」でして、さんざん盛り上がったんだけど、そのあと題目をあげ抜いてわかった。犬は信心しなくていい、題目あげなくていいんじゃないんだ。彼らは信心しなくても、題目あげなくても、ちゃんと宇宙の法則に則って生きてるんだ。

じゃあなんで人間は宗教を必要とするのか。

その答えはある意味、簡単。

神様(というと話が早いけど、人格を持った神様じゃなく、宇宙のリズムそのものなんだけどね)が、人間を、自由すぎるカタチで生み出した。宇宙生命がね。よくキリスト教の人が、神は人間を自分の姿に似せて作った、みたいなことを言うけど。僕に言わせれば、当たらずとも遠からずだと思うんだよね。

どういうわけか、理由はわかんないけど、人間は自由すぎて生まれる。人を騙す自由、人の命を奪う自由、死ぬほど金儲けして自分だけがウハハな人生を送る自由、カネがなくて地べたを這いつくばる自由、人を憎み、羨みながら死んでいく自由…。

だから宗教が必要なんだ。空には鳥が飛ぶ道があり、海には魚が泳ぐ道があるように、人間には正しく生きる道がある。それを知るのが宗教の力で。

で、いろんな宗教があってね、乱暴な人は、どんな宗教でも、信じてればみんないっしょ、なんてことを言う人がいる。僕はそれはまったくの間違いだと思う。

前に登山に喩えたことがある。同じ山の山頂を目指すんでも、いろんな登山ルートがある。昔は安全に登れたけど落石で人が死んで、だんだん危険になってる道、しっかり整備されていて、多くの人が安全に山頂にたどり着ける道。

それから、Wi-Fiルーターに喩えることもできるよね。正しい宗教というのは、電波も強くて、最新の暗号方式にも対応してて、同時にたくさんの端末とつながることができる。

よく、神社とかを愛でて、この下り坂がいいとか言ってる人がいるけど、神社が完全に単なる観光名所ならば、本堂の苔むす感じがいいとかいってりゃいいけど、宗教であるということであるならば、たとえば20年前のスマホの、この塗装のはげ具合がいいとか、このフォントのドットの粗さかげんがいいとか言ってるのと同じだから。

「心の安寧」みたいな漠然とした、気休めみたいなことを求めてるのならば、それでいいんだろうけどさ。日本の神道は、先の戦争の責任を、いまだに認めてないからな。その一点でも、許すべきじゃないよな。

ま、話が逸れたけど。

何が言いたいかというと、境涯が狭いから、器が小さいから、お前はダメなんだ、とかって言い方は、単なる脅しに過ぎないから。

そういう方には、8/7と8/10に聖教新聞に載ってた、作新学院大学の渡邊学長のインタビュー記事を100回くらい読んで、面接試験に合格してから、言ってくれ。と申し上げたい。

あと、何度も言うけど、血圧が高くて、明日死ぬかもしれないけど、それでもいいんだよ。オレは今世で言うべきことは言ったつもりなので。

仏法っていうのは、永遠の生命を説いてるんだよ。

法華経の智慧でも、池田先生は明確に、仏法には長生きしたからエラいとか、短命だから不幸だとか、そういう教えはない、と明確におっしゃってる。

そのうえで、庶民の気持ちをくんで、更賜寿命ということを大聖人もおっしゃっているんだよと。

それでいいんじゃね? オレはそれでいいと思うけんどなぁ。

会いたい人には、また来世で会えるし。まぢやで。

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