組織のことで悩み、先輩に指導を受けた。

最近組織のことで悩んでることを先輩の幹部(僕から見たら2階級上の)に指導を受けた。だいぶスッキリした。先輩のいうのは、しっかり祈って、いまある戦いをしっかりやって自分の姿で組織に示すのだということ。組織のみなさんに信頼されていなければ、どんなに正しいことをいっても、それは聞いてもらえないのだ、と。そのとおりだと思った。

あと、僕が疑問に思ってることなどをLINEとかでガンガン投げかけることについて、「こっちでは一生懸命に答えてるつもりでも次から次へとやってくると疲れてしまう」、みたいなこともいわれた。これはちょっとショックだったなあ。こちらとしてはどこまでも組織を強くしたい、お預かりしてるメンバーの方々に信仰者(学会員)としての本来の使命を思い出してほしいと、よかれと思ってやっていることなので。

ひとりでも多くの人を成仏の彼岸へと渡らせる創価の仏法の使命は、いやまして大きい。そのうえで、では、どうすればひとりでも多くの人を救えるのか、というのは古来からの一大テーマなのであり。古来からというか、仏のいちばんの悩みといっても言い過ぎではない。釈迦は最初に華厳経を説いたけど、難しすぎてみんなチンプンカンプンだったから、釈迦は考えを改めて阿含経から説き直したという…。

先輩のいうことは、おそらくは、「ひとりでも多くの」というポイントを重視したアドバイスというか指導なのだと思う。僕からしたら、いまの組織が全体的にマンネリ、惰性になっていて、上から来た打ち出しを、ただこなすだけになっていて、本当の信心の歓喜からは懸け離れているのではないか、という根本的な疑義がある。

「新聞啓蒙」という戦いがある。公式な場では聖教新聞の拡張とかいうのかな(なんか違う言葉だった気がする)。「啓蒙」という言葉が、どこか相手をバカにしてる、下に見てると思われても仕方がない響きがあるから、外に対してはそう言い換えてるんだろうけど。だったら新聞啓蒙という言い方自体をやめちゃえばいいのに、と思わないでもないが。

僕がいま言いたいのは、そこではない。「新聞啓蒙」というのは紙の聖教新聞を友人知人に購読していただくことをいうのだが、創価学会ではこの新聞啓蒙を戦いの基軸につねに置いている。お金を払って友人知人に聖教新聞を読んでいただくことで、創価の仏法を地域社会に広げていこう、ということだ。それ自体はよくわかる。非常に理解できる。

ただ、僕がどうなんだろうと思うのは、この「新聞啓蒙」、1部●ポイントできた、ということばかりが強調されすぎて(ポイントというのは何か月購読していただけるかということ)、啓蒙ができたらエラい、できないとエラくない、みたいな風潮が組織に蔓延してること。

僕は信仰というのは、どこまでいっても本質が大事だと思っていて、信仰者はつねに本質に立ち返るべきだと思う。だからこそ、僕ら創価学会のメンバーは、毎日、朝晩、基本的には勤行唱題という日蓮大聖人が定められた修行を欠かさずやることを推奨されている。

で、聖教啓蒙に話を戻すと、どこまでいっても聖教新聞の記事を通して友人知人にこの仏法の哲理に触れていただくことが大事なわけで、何か月聖教新聞を購読していただけた、というのはある意味、ひとつの結果、カタチに過ぎないと思われ。

もちろん僕は聖教啓蒙が意味がないといっているわけではない。もちろんものすごく意味がある。僕も日曜日に聖教新聞の代配をやっているからよくわかるのだが、自宅のポストに毎日、聖教新聞が当たり前のように届く、そのことの意味の大きさは、いくら強調してもしすぎることはない。創価学会にまったく興味がない人でも、新聞をポストから取り出すときになにげなく目にした1面の記事の見出しで、ちょっと読んでみようかな、と思うこともないわけではないわけで。

繰り返しになるが、毎日、自宅ポストに聖教新聞が届く意味というのは、計り知れないほど大きい。そのうえで、あえていいたいのは、いちばん大事なのは紙の聖教新聞を「取らせる」「取ってもらう」ことではなく、友人知人に聖教新聞の記事に触れていただくこと、読んでいただくことだと思う。

ものすごく大きなことでいうと、僕は時代はモノからコトへ、コトからココロへ、大きくうねりを上げて動いていると思っている。信仰というのは究極の心の持ちようなわけで、モノ(=カタチ)というのは、どこまでいっても仮の姿なわけだ。

聖教啓蒙というのは聖教新聞が誕生した、もう何十年も前からの戦いなわけで、根本精神は永遠に変わらないとしても、いまは電子版もあるわけだし、「紙の新聞を何か月か啓蒙できた」ということだけをすべてだと考えるのは、すこし時代から外れているのではないかと思う。

(ここで少し休憩)

その上で思うのは、以前、尊敬する写真家の小林のりお先生がおっしゃっていたことが脳裏に残っているのだが、写真家として生きていこうとする学生たちに言われていたことには、自分の写真を追求することは大事。でも、自分の写真を続けていくためには、なにか公募展で賞を取ることも大事なんだと。

つまり、まったく新しい自分の写真表現をこれからも続けていって社会に認めさせていくためには、自分の本来の写真表現を若干は曲げる(弱める、日和る)ことがあったとしても、いまある既存の評価軸にいったんは認めさせることも方便としては大事なのではないか、ということなんだろうな、と思う。

自分に当てはめて考えれば、ここでどれだけ聖教啓蒙の評価軸の不当さを叫んでいても組織の方々は相手にもしてくれない。笑 だったらたとえば聖教啓蒙を20部くらいやって、組織の方々をアッと言わせ、自分の発言の説得力を1億倍にすることも方便としては大事なのではないか、ということなのかなと。

あとは、どんなに正しいことでも、相手に伝わらなければまるで意味がないわけで、相手に合わせて法を説いていく、ということが決定的に重要なのかなと。一般社会でも「●●のくせに」みたいな言い方をされますよね。たとえば、そうだなぁ、母親のくせに、とか、政治家のくせにとか、社長のくせにとか、大人のくせにとか、あとなんだろ、大学生のくせにとか、店長のくせにとか。

まあ外形的な肩書では、何も決まらないというか。いろんな人がいるわけで、自分も含めてすべての人は完璧とは程遠いわけで、「●●のくせに」とかいっても、あんまり建設的ではないよねぇ、という話。これは僕が好きでよくする「自分を基準にして物事を判断するな」というのと同じことなわけで。アタマでは分かっているんだけど、新しい事態、状況に遭遇すると、そうか、これも同じことだな、まだまだ自分の理解、反省が足らないな、と心の底から思うわけで。ま、善きことというのはカタツムリの歩みの速さで進む、って誰かが言ってたもんな。そのくせ破壊は一瞬だから、始末に負えない、というか、修行のしがいがありますね。笑

そんなことはどうでもいいや。だいたい、書きたいことは書けたかな。

僕はたぶんどうも、知り合いの方々からは「議論好き」と思われてるみたいだけど、ひとつには兄弟が多くて(自分も入れて4人兄弟。ちなみに僕は2番目で長男)、生存のためにはつねにケンカに限りなく近い議論を日々、繰り返していた幼少時代からの経験があまりにも大きくあるわけで。

そのうえで、毎日のように、じゃなかった、毎日、twitterに何十もツイートを吐いて、ひとのツイートも何百、何千と読んで、自分の考えをまとめたり、改めたり、修正したりという訓練を繰り返しているから、議論をすることは少しでもよい結論に達するための必須条件だと信じてるんだよな。信じているというより、理解している。

時代はそういう時代を迎えてるんだよ、とっくに。

上が言ったことが絶対視されて組織の隅々にまで有り難いお言葉として時間をかけてじっくりと浸透していく、というのはもう昭和でおしまい。

創価学会の第二代会長、戸田先生は、交通が発達して、多くの人が一か所に集まれるようになったのは広宣流布が急速に進む時代到来だ、といわれた。

であればこそ、これだけ通信、ネット、SNSが普及した今日は、さらに加速度的に、正しい仏法が全世界の隅々にまで、急速に広まっていく舞台装置は完成したと考えるのが自然だと思われ。日蓮大聖人の仏法の発祥の地、ここ日本の千葉で、いつまでもあまりにも基本的なことで揉めているのは、あまりにも建設的ではないと思われてならない。

なので、今日のところの結論としては、

・与えられた戦いで圧倒的な結果を出す
・相手に伝わるような易しい言葉でゆっくり話す

このふたつでしょうか。

間違っていたら、厳しく叱ってください。
叱られるのは慣れてるので。へそを曲げたり、退転したり、電話線を抜いたりはしません。ただ、理解、納得できなければ、ウザい、しつこい、めんどくさいと思われようが、納得できるまで、何度でも何度でも繰り返し尋ねます。

なぜか。それが僕にとっての広宣流布だし、今世の使命を果たすことに直結してるから。

今後ともお世話になりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

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