生物が存在する意味。

あたしも57年と2か月ちょっと生きてきて、ずっと思索を重ねてきて、ようやくわかった。

生物が存在する意味が。

なんだと思いますか。

簡単ですよ。

宇宙に存在するすべての存在は、自分以外の存在の幸福のために尽くすために存在している。

違いますか?

僕は池田先生の『法華経の智慧』を本当に何度も何度も繰り返し繰り返し読んできたなかで、ああ、そういうことなんだな、ということに気がつきました。得心がいきました。納得しました。

1月のほとんどをインドで過ごして、あまりにも金欠状況に陥ったので、自宅に眠っている不用品を片っ端から発掘してきて、次から次へと出品してるわけですが、この作業がじつに楽しい。

なんつーか、クルマで自宅から津田沼に行く場合、どの道を通るかってあんまり深く考えないんだけど、自転車で行くとなると、じっくり考えざるを得ない。どの道を通れば、いちばん安全に、いちばん快適に行けるかって。

僕が死ぬほどカネがあって、自宅のあちこちに眠っている不用品になんか目もくれずに、新しい、魅力的な製品をバンバン購入していたら、このような心持ちを得ることはできなかったと思われ。

なのでインド行きを決意した自分の決断にGJ!と叫びたい気分。

なんの話だっけ。そう、存在が存在する意味。

いわゆる生物か無生物か、っていうのは、あまり大きな問題ではない。

いまの言葉で言うと、無生物はパッシブ(受け身)で、生物がアクティブ(積極的、能動的)である、というささいな違いがあるだけで。

すべての存在は、自分以外、つまり他者の幸福のために存在する。

これは仏法の法華経、妙法蓮華経に明確に説かれているよね。

で、そのうえで、だ。

では日蓮大聖人が説かれた「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるというのは、いったいどのような意味があるのか。池田先生が、ありとあらゆる場で、言葉を尽くして教えてくださっているが、そのうえで、弟子である我々が、自分の言葉で言葉を足してはいけない、ということはたぶん、ひとつもないだろう。

いまの創価学会には、圧倒的に、議論が足りない。

たぶんそれは、信濃町の宗教貴族どもが、日本全国1,000万の創価学会員を従属させるためのワナなんだと思う。僕はそれに気づいたとき、震えたよ。もちろん、わなわなとね。

まだまだ書きたいことは無限にあるけど、今日のところは、このあたりで。

南無妙法蓮華経って音楽であり、リズムなんだよ。

だからあたしは、素晴らしい楽曲が世の中にはいっぱいあるけど、自分でそこにひとつふたつプラスしたいな、と心の底からずっと思ってるわけで。

まだまだ祈りが足りないわけだが。

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