信仰との出会い
僕は母が熱心な創価学会員で、父親は大反対だったんだけど、物心つくかつかないかの頃から、創価学会の信仰に慣れ親しんでた。いまでも忘れないのは、幼稚園の年長のころ、母に自分から「勤行を教えて」と頼み、教えてもらったこと。コタツに入って教えてもらったのを覚えているので、冬のことだったか。
僕にはひとつ上の姉がいて、小さな子どもの頃はお姉ちゃん子で、姉と姉の友だちと遊ぶ、というのがけっこう日常的で。そして姉が小学生になると、姉は「少年部」の会合に出かけていく。僕は姉が行く「少年部」の会合に行きたくて、それで母に勤行を教えてもらったんじゃないかと思う。
「勤行」というのは、創価学会が依経としている法華経のいちばん大事な2つ、第2章「方便品」と第16章「如来寿量品」のごく一部を読誦するのですね。いまはうんと短くなったけど、むかしは「如来寿量品」の長行を読んでたし、寺の坊主と同じように朝は五座、夜は三座とそれぞれ3回、5回、同じのを読んでたので、えらい時間がかかった。けど僕は幼稚園の年長のときに母から勤行を教えてもらって以来、ほぼ欠かさず朝夕、勤行をやってきた。後に創価学会が日蓮正宗の宗門と別れてからSGI式と称して、いままで朝にやってた如来寿量品の長行の読誦は中止、そして朝5座、夜3座だった勤行を、それぞれ1回ずつに省略。したんだよな。いまから20年くらい前かなあ。いや、もう30年前になるか(ちょっとググってみたら、平成16年くらいからのようです)。そもそも5座3座というのは修行だけしてればいい坊主が、総本山とか堂宇が立ち並ぶでかい寺で、いくつかの建物を回ってそのつど勤行をしてたのを踏襲してたということで。メチャクチャ忙しい現代の信徒が坊主と同じように勤行することもなかろうもん、という画期的な方針転換により、世界の創価学会員は救われたわけですね。あと、SGI式というように、海外の創価学会メンバーは、日本人でも読むのが難しい経典を意味もわからずに何度も読むのは大変だろう、という意味も込められていたとか。ここだけの話、当時の秋谷会長が海外メンバーは「SGI式勤行」で!と本部幹部会で言った瞬間、僕もSGI式に切り換えました。なのでたぶん僕は日本の創価学会員のなかで、たぶん5本指に数えられるほど、SGI式を真っ先に取り入れた人間だと思われ。まあそんなことはどうでもいいのですが。笑
題目はめちゃめちゃ“効く”
話はやや脱線しましたが、創価学会員が励行している朝晩の修行は、勤行の他に「題目」というのがあり。有名な「南無妙法蓮華経」ってヤツですね。これは日蓮大聖人が法華経の文底に秘沈された究極の教えを7文字に凝縮したモノとされていて。創価学会では、勤行は助行、題目は正行として、題目がメインの修行とされる。これを知ったのはずっとあとなのですが。よく喩えられるのは、うどんとツユ、あるいはご飯とおかず。なのでまあ、朝の忙しい時間に、5座の勤行を20分とかかけてやって、題目をちょろっとあげて出かける、というのは、いずれにしても本末転倒だったのですよね。
で、知ってる人は知ってると思うし、知らない人は知らないと思うけど、この南無妙法蓮華経、という題目を、気合いを入れて日蓮大聖人の遺された「御本尊」に向かって唱えると、めちゃめちゃ効く。効くというのは非常に軽い言い方に聞こえるかもしれないけど。ふだんの生活でも、いろいろ自分がやることがなんとなく全体的にうまくいくのもそうなんだけど、やっぱりお題目の効き目を実感するのは、大きな課題に直面したときとか、大きな悩みをかかえてるとき。僕は幾度か人間関係でものすごく深く悩んだことがあって(人間関係というか女性関係)、そのときは本当に死ぬような思いをしながら半年くらいひたぶるに御本尊にお題目を上げ続けた。
あと、自分の体験でいうと、むかしデジカメの本を作ってたとき、新しいデジタル一眼レフが出ると、編集長から一冊丸ごと託されるわけですよ。「オグラ、これやって」と。で、最初にやることは、144pか128pくらいのムックの内容をざっくり決めること。「台割」っていうんですけどね。真っ白なExcelのシートに4pとか8pとか区切って、どんな内容のページを作るか、それをイチから考えるわけです。
もちろん、過去に編集部で作った類書の台割は全部参照できるわけだけど、新しく世に出たデジタル一眼レフは、そのメーカーが全力を掛けて盛り込んだ新機能が満載なわけで。それをじっくり考えながら、どういう内容のムックにしたら一冊でも多く売れるか、読者に喜んでもらえるか、それをじっと考えるわけです。その期間というのは、変な話、風呂に入ってるときも、寝てるときも、台割のことばっかり考える。そんな日々が1、2週間続くわけ。
そういうときに題目を唱えると、濃い霧でほんの数メートル先が見通せなかった状況が、少しずつでも確実に霧が晴れていき、遠くの山々がくっきりと見えてくるわけで。うっわまぢすげえ、なんだこれ、と思いながら、頭に浮かんだコンテンツをその場でメモして、なんてことが幾度となく繰り返され。学会員なら誰でも経験があることだと思いますが。
どうして題目って功徳があるの?
あるとき僕は思ったんです。なんで題目をあげると功徳があるの?と。たとえば僕はあんまり経験がないのですが、医者から見放された病気が治ったとか、経済苦を脱することができた、とか。そういう体験は世界中で枚挙に暇がありません。なんで? なんで? なんで題目をあげると功徳があるのよ。そんな疑問が僕のアタマから離れなくなったのは、45歳くらいのときでしょうか。いまさらながら、知恵熱というか。笑
創価学会では、お題目をあげると「宇宙のリズムに合致する」とよく教えられます。じゃあ、宇宙のリズムって何? あとよく、信仰の究極の目的は一生成仏だ、とも。むかしは歴劫修行といって、生まれては死に、死んでは生まれ変わり、というのを繰り返しながら修行を続けて、ずっと先の未来にようやく仏になれる、成仏できる、というのだったけど、日蓮大聖人の仏法は教えが高いので、題目を唱えるだけで、今世で成仏できる。人間の姿のまま成仏できると説かれます。これもわかるような気がするのですが、具体的に成仏って何?って思うわけですよ。たぶん、僕らの師匠である創価学会名誉会長の池田大作先生のようになることを成仏というのだろうけど、池田先生はあまりにも偉大すぎて、ちょっとなかなか身近に感じられないというか。もうすこし自分の実感として成仏を捉えたいと心の底から思ったわけです。これも知恵熱ですかね~。
で、まあ、題目をあげるたびに、そのことを思い、日常生活の中でも、空いた時間があると、ボーッとそのことを考えてました。本部幹部会や聖教新聞で触れる池田先生のご指導を伺いながらも、どこかに答えがあるのではないかとずっと考えてた。そしていちばんやっぱり有り難かったのは、池田先生が当時の創価学会教学部の若き俊英たちと法華経について縦横無尽に語り合った「法華経の智慧」全6巻。ここにヒントというか答えが全部載ってたように思います。自慢ではないですが、僕は法華経の智慧が本当に好きで、いままで何回も何回も読み返しています。どこにどんな話が載ってたか、だいたい覚えてる。
個別指導塾の講師として…
僕は個別指導塾の講師をずっとやってて、というのも学生時代も5年やって青春のほとんどを捧げたわけですが、2010年頃に当時やってたフリーの編集者の仕事を自分の仕事に向かう姿勢からほとんど失う事態となり。茫然自失のなか、お題目をあげ続け、学生時代にやってた塾講師のバイトを再開してみようと思ったわけで。何もしないよりマシか、というくらいの気持ちで。
個別指導塾の講師として中学生に数学、英語と国語を教えるなかで、出合った文章が自分の目を開かせてくれた。ひとつは、「ガイアの知性」っていう、中2の国語の教科書に載ってる文章。知ってる人も多いと思うけど。元NHKディレクターで映画監督の龍村仁さんが書き下ろした文章。イルカとゾウの話が出てきて。ここに引用したブログがありました(http://www.ric.hi-ho.ne.jp/birdbanding/gaia/1128.shtml)。ぜひご一読ください。
イルカもゾウも、あんなしてるけど、じつはめちゃめちゃアタマがいい。イルカはちゃんと自分が捕らえられて人間のために芸をしてるってことをちゃんと心得てる。あるときイルカが飼育員にニックネームを付けてそれに気づいた飼育員がそのニックネームを口にするとイルカはめちゃめちゃ嬉しそうだった、って話。
ゾウのほうは、アフリカの草原のある場所に、ゾウの歯が置いてあったので、レンジャーはその歯を収集して倉庫にしまっておいた。そしたら夜な夜な巨大なゾウがやってきて、倉庫のかんぬきを開けようとする。なのでレンジャーは倉庫のかんぬきを外しておいた。そしたら翌朝、何百個も保管されているなかから、新しく収集した歯だけがなくなっていた。そしてもともと置かれていた場所に返されていたというのだ。
この話、もうめちゃめちゃ感動したのですよ。ああ、人間だけがこの地上の支配者じゃないんだって。あまりにも人間が傲慢であってはいけないって。「地球に優しく」なんて世迷い言をいってても、なにひとつ人間は地球に優しくなんかしてない、地球を虐待してばかりじゃないかって。
そしてもうひとつ、これはたしか中2の国語の難しめの問題集に出てきた文章で。
たぶん北海道だと思うんだけど、浜辺にニシンが産卵のために押し寄せる。浜辺が真っ白に染まる。そのニシンを捕ろうと漁師たちが殺到して、ものすごいことになる、という。なんかあたしの筆力だとまったく迫力が伝わらないけど、著者はたしか、これこそ大自然の摂理だ、ということを書いており。
池田先生は指導のなかで、太陽が光と熱を発しながら燃焼し、地球がものすごいスピードで太陽の周りを回る、その原動力と同じ力が、我々の命のなかにもある。それが南無妙法蓮華経だ、ということを繰り返し教えてくださっている。大宇宙と小宇宙、という言い方もよくされる。大慈大悲、という言葉もよく聞きますよね。仏の広大な慈悲を賛嘆した言い方。
「宇宙のリズムと合致する」とは
題目をあげるなかで、わかったんです。
あ、宇宙のリズムという、宇宙の摂理といい、大慈大悲といっても、同じことなんだなと。おそらくは南無妙法蓮華経が指し示す意味内容も。
題目をあげるなかで、僕は仮説を立てました。「宇宙のリズムと合致する」というのは、自分が宇宙と同じ境涯になる、ということなんだと。で、その宇宙のリズム、宇宙の摂理、南無妙法蓮華経、成仏というのは、たぶんこの3つなんだと思う。
・命を生み出したい
・命を育みたい
・生きとし生けるものを幸せにしたい
創価学会の書物とか指導集とかには、ここまでハッキリと端的に書かれたものはないように思いますが、「法華経の智慧」のなかで池田先生は、こういう意味のことをあちこちでおっしゃられている。
人間がしあわせになるって?
オグラの思索は続くわけです。じゃあ、人間が幸せになるってどういうことだろう。もちろん人の数だけ幸せのカタチがあっていいわけですけど、その根本原理を知りたいと思った。いろんな人に共通のしあわせってなんだろう。
よく、お父さんとかは、家族を養うことが僕の幸せだ、なんて言い方をしますよね。それももちろんしあわせなんだろう。でも、僕は妻も子どももいないのできっと嫉妬もあるのだろうけど、動物だって子どもを慈しみ、大事に育てるよね。そう考えると、子どもを養って立派に育てることって、人間だけが特別ってわけじゃなく、生物としての基本だよね。
題目をあげるなかで、わかった。「しあわせ」ってたぶん、「使命を果たす」ことのなかにあるんだろうな、って。すみません、前に書いた文章が消えてしまって衝撃のなかで思い出しながら書いてる部分もあるので、かなり未整理なのは承知の上なのですが、仏法では、創価学会では「使命」ということを非常に大事にしていて。僕らは法華経従地涌出品に説かれる「地涌の菩薩」だとされるんですね。地涌の菩薩というのは、釈迦の滅後、この娑婆世界で誰がこの法華経を弘めるのか、という話になったときに、釈迦のそれまでの弟子たちがそれぞれに決意を述べるんだけど、釈迦はことごとくそれを却下し。そうこうしてるとものすごい地面が震動して、地面の底からものすごい数の、ものすごい立派な菩薩たちが姿を現し。彼ら「地涌の菩薩」が釈迦滅後の法華経流布を誓うわけですね。それが僕ら創価学会員だというわけです。現代社会において全世界でこの法華経を基調とした創価の仏法を現実に弘めてるのはわれわれ創価学会員しかいない、という。
で。「しあわせ」というのは「使命を果たす」ということなのだろう。つまり、自分がこの世に生まれてきた本来の目的を果たしゆくところに、人は自身の幸せを感じるに違いない、と思ったわけです。枝葉末節はあるにせよ。
じゃあ、究極のしあわせって何よ?って考えたら、先に半分以上、答えを言ってしまったようにも思うけど、この平等大慧の仏法を世界の隅々にまで弘め、時代精神とすること。
宇宙がさ、さっき書いた3つのことを目的に回ってるとしたら、僕らは所詮「宇宙の子」なわけで、宇宙の願い通りの生き方をしたら、宇宙からご褒美をもらえるわけですよ。ものすごくわかりやすい喩えでいえば、会社員は会社の利益のために働くからお給料をもらえるわけですよね。地球に暮らす僕らもまったく一緒だと思われ。どんなに頑張ったって、大宇宙の摂理から逃れることは絶対にできないわけですよ。
たとえばめちゃめちゃ寒い真冬に薄着で外出したら、あっという間に風邪を引くでしょ。何も考えずに横断歩道を赤信号で渡ったら、車にはねられてケガをするでしょ。それと一緒で、僕らは絶対に宇宙には逆らえない。僕らにできるのは、宇宙の「意思」を知り、その宇宙の意思のとおりに生きて自分の人生に価値を生ずること。それが「価値創造」つまり創価の生き方なわけですね。
生物が地球に生まれる確率
これもググってもらえば、死ぬほどそういうページに行き当たるので、ぜひやってみてほしいんですけど、人間が、って生物が、でもいいと思うのですが、生物がこの地球に誕生したというのが、どれほど奇跡的なことであるか。
ググったらこのページがヒットした。前にもググって読んだことがある。他のページにも同じ数字が出てくるから、きっとそんなに間違いはないと思うんだけど、この地球に最初の生物が誕生する確率は、10の40,000乗分の1なんだって。10の40,000乗分の1だよ。想像できますか。無量大数とかナユタアソギとか、そんなレベルじゃない。笑
ビッグバンの考え方をアレしたフレッド・ホイル博士は、この奇跡のような確率を、僕らにもわかるように、こう表現したそうです。「廃材置き場の上を竜巻が通過した後で、ボーイング747『ジャンボジェット』が出来上がっているのと同じような確率である」。ヤバくないすか。笑
太陽と地球の絶妙な距離。サイズ。地球が太陽の周りを約365日かけて一周すること。ほぼ24時間に1回、地球が自転すること。地球が太陽に対して23.4度、微妙に傾いて自転と公転をしてること。月という衛星がずっと地球のほうに同じ側を向けながら地球の周りを回っていること。木星が小惑星をものすごくたくさん従えて地球の外側を回ってること。。
たぶん、たぶんね、キリスト教とか、一神教を信じる方々は、この想像もつかないような奇跡の奇跡のそのまた奇跡みたいな確率を「神がこの宇宙を作った」って簡単に解決、納得しちゃうんですよ。ビッグバンという考え方からして、そうですよね。
でも東洋の叡智を知る僕らは、そんなに簡単に神に頼ったりはしません。仏法で宇宙は無始無終だと説かれます。はじめ人間ギャートルズの主題歌で「なんにもない なんにもない まったくなんにもない 生まれた 生まれた 星がひとつ 暗い宇宙に生まれた」「星には夜があり そして朝が訪れた」ってありますが、星がひとつ生まれたのに、どうして朝があるんだよ、と突っ込んだのは僕だけではないと思いますが、仏法ではこの宇宙を貫いているのは「法」なんですよね。人間が想像/創造した神なんかじゃない。もっといえば、神なんか要らない。
神ってモノを許してしまうと、じゃあなぜ人間は神じゃないんだ、って話になる。そして人格神と思うと、どうしても「感情」とか「恣意的な判断」というものが付いて回る。そうじゃない。宇宙にはただひたすら最初から最後まで「法」というものしかない。「リズム」といっても「摂理」といっても「大慈大悲」といっても「平等大慧」といっても「仏」といっても同じこと。それを日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と喝破された。
だんだん疲れてきたので、そろそろ終わりにしますけど、よく飲み友だちの石川恵に仏法の話をするときに話すんだけど、世の中にはいろんな宗教がある。それはたとえば、山登りに似てるかもしれない。世の中のさまざまな宗教は、みんな目指すべき理想というか目標は同じなのかも。でも、山頂に向かう道筋はそれぞれ違う。ものすごく険しい断崖が続き、限られた超一流の登山家しか山頂に辿り着けない登山道もある。以前はみんながそのルートを辿ってたけど、かつて大規模な落石があってもう登山道としては途絶えてしまっている道もあるだろう。それに対して、多くの人たちが安全に確実に山頂に到達できる大きな、幅の広い登山道もあるかもしれない。それを正しい宗教と呼ぶのは、けっして間違っていないのではないか。
いちばん最初の話に戻るけど、宇宙のリズムと合致すれば、人間は幸せな人生が送れる、とアタマでは理解できたとしよう。でも人間はいうまでもなく感情の生き物で、縁や環境によってもさまざまに揺れ動く。決意したことも貫くことはなかなか難しい。むかしの仏道修行とかもそうだよね。滝に打たれたり、荒行をしたり、死ぬほど長い経典を写経したり。天台大師は「観念観法」といって自身の内に備わる仏界を観ずる実践法を確立したが、あまりにも難しくて誰でもできるものではない。
なので日蓮大聖人は、われわれ末代の凡夫のために、南無妙法蓮華経、というシンプルかつ至高の修行法を確立してくださった。南無妙法蓮華経と繰り返し唱えることで、どんな人でも自然に宇宙のリズムと合致していける。
ただし、ここで大切なのは、お題目だけパクパク唱えていればいい、ということでは決してないということ。
宇宙は一瞬も休まず、「命を生み出したい。命を育みたい。生きとし生けるものを幸せにしたい」という自身の思いのままに活動を続けている。われわれ人間が宇宙の子として、この人生で幸せをつかみたいと思うのであれば、宇宙と同じように、他者の幸せのために全力で戦え、実践せよ、ということに尽きると思う。池田先生はつねに、口癖のように誓願の唱題、自行化他にわたる唱題行とおっしゃっている。自分の幸せだけを願ってたらあかん、てことよ。それだと単なる小乗経になっちゃう。大乗経は、自分の幸せをさておいてでも、他人の幸せのために実践をやめない菩薩の生き方を奨励しており。そういう実践によってのみ、自身の境涯、器を大きくすることができて、それによって大きな幸福境涯を築くことができると説く。
めちゃめちゃ道理だと思うんだよ。もちろん人は自分の与えられた仕事がある。僕でいえばカメラマンだし、塾講師のバイトだし。だけど人間として生まれてきたからには、個別具体的な職業、仕事とは別に、「地涌の菩薩」としての本領を発揮しないといけない。それをしないと、本当の幸福は掴めない。
簡単に言うと、人の幸せのために尽くす、全力で頑張るということ。そしてこの、僕がこの雑な文章で書いてきたような利他な生き方を自分の身近な人たちに伝えて、時代を変え、一切の差別をなくし、世界平和を実現していくこと。
すごいレベルが低い話で恐縮だけど、本当にお題目をあげないと宇宙のリズムに合致できないのかな、と無駄な努力をしたことがある。いまもたまにしてるけど。でもたいていは徒労に終わる。笑
あるとき、ボーッとしながら考えたのだ。
ひとは酔いたくなったら、お酒を飲むでしょ。
お酒を飲まずに、「酔っ払った状態を作り出したい」と思っても、あんまり意味がないですよね。そんな無駄な努力をしてるヒマがあったら、近所のスーパーやコンビニに行って、好きな酒を買ってくればいい。僕は体に悪いのでストロングゼロは避けてますけど。笑
そんなところでしょうか。今日のところは。
また思いついたら書きます。今日、書き切れてない部分も、ちゃんとわかってます。えっと、なんだっけ。笑
鮭って美味しいですよね…
あ、すべての生き物には、使命があるってこと。
ずっと前から思ってることがあって。シャケっているじゃないですか。魚の鮭。お弁当とかに焼いた切り身が入ってる…。みなさんもそうだと思うのですが、僕は焼き鮭が大好きで、イオンとかで半額でお弁当が売ってると喜んで買ってしまうのですが、醤油をかけて食べてると、必ず思うんですよね。「シャケって、なんでこんなに美味しいんだろう」って。ミカンとかもそう。ミカンって皮は剥きやすくなってるし、食べやすく小分けになってるし、甘酸っぱくて美味しいし、しかも体にいいし。いったいなんだんだろう、ってずっと前から思ってた。で、あるときに、祈ってるうちに、こんな仮説を思いついた。
すべての生き物は、なにかしら、別の生き物のためにプラスになるために、生きてるんじゃないかって。
ベタな言い方だけど、すべての生き物は、支え合って生きてる。かけがえのない存在。だからたぶん、新型コロナウイルスも、きっとなにか大きな意味がある。
うちの母ちゃんは熱心な学会員だったので、うちは貧乏人の子だくさんだったのに、どういうわけか学会関係の書物だけはたくさんあって。ほかの兄弟は見向きもしないのに、あたしだけは小さい頃からせっせと読んでた。
「希望の友えほん」っていう厚紙でできた仏法説話の絵本がうちにたくさんあって。そのなかのひとつに、僕らが肉を食べる、豚や牛や鶏は菩薩なんですよ、っていう一文があり。何十年経っても、あの衝撃は忘れられない。え? 菩薩って、なんか修行を重ねてる偉いお坊さんのことをいうんじゃないの? って子ども心に疑問を抱いた。でも母に聞いてもきっとちゃんとした答えは得られないだろうと子ども心に封印した。笑
その疑問が何十年かして、上に書いたようなことがだんだんわかってきて、ようやく氷解したわけさ。
そうか。豚や牛や鶏は、人間とか、他の生き物に自分の命を差し出すことによって、他者の命を長らえてる。
考えてみたら、魚も動物も昆虫も、たくさん子どもを産むけど、そのほとんどが大人になる途上で、ほかの生き物に食べられるというカタチで命を落とす。現実のもとで考えると、だれか他の生き物のために生まれてきた、といっても過言じゃないと思えるくらい。
植物だって、そうかもしれない。八百屋に行くと、まさに百花繚乱。イロトリドリの野菜が所狭しと並んでいるけど、考えてみたら、その植物の種をまくと、同じ土壌から、別々の植物が育つって、ものすごく不思議なことだな。色もカタチも味も栄養も違う。これももしかしたら、彼らが菩薩として、他者に自分の身を挺して元気になってほしい、健康になってほしい、命を長らえてほしい、と心の底から思ってるんじゃないか。
実がたわわになった柿の木とか見てても、ずっと思ってた。柿の木ってたぶん、自分の子孫を残そうっていう純粋な動機だけじゃなく、だれかに自分の実を美味しく食べてもらいたいって思ってるに違いない。じゃなかったら、こんなにたくさん実がなるわけないよねぇ、って。
まあ、ダーウィンの進化論とかだと、ちゃんと説明がつくのかもしれないけどね。でもいまの時点で人類が手に入れた科学が絶対なんて証拠はどこにもないからね。
蜂蜜とかも、そうだよね。一生懸命にミツバチが集めてきた花の蜜を、人間やクマが横取りして美味しくいただいてる。考えてみたら、ひどい話かもしれない。
そう考えると、人間はだれかに自分の肉体を食物として捧げることはめったにないわけで、それなのにえらそうに霊長類なんていって、すべての動物の上に君臨し、地球を我が物顔で独占し、好き勝手に破壊しまくってる。仏法の眼から見るならば、そろそろいいかげん人類も目を覚ます頃かと。人間以外のすべての生き物の幸せ、地球環境の調和のために全力を尽くすべきなんじゃないか。最大の環境破壊ともいえる戦争なんてもっての外だ。
バスケの撮影で思ったこと
僕はカメラマンとして、中高のバスケとか、小学生のミニバスとかの撮影に行くことがあるんだけど、そんなときに選手たちを見てて、思う。選手たちは試合に出たいと思って厳しい練習に耐えて、今日の日を迎えた。レギュラー選手はもちろん、控えの選手たちも、いつ監督から、行ってこい、と言われてもいいように、体調を万全にして、気持ちをベストな状態にして、そのときを待つ。
僕らも一緒だと思うんだよね。僕らが宇宙の大生命にミョウブクしてるなかで、一個の命として地球上に生まれ出たい、と心の底から願い、客観的な条件(?)も完璧に揃ったときに「宇宙生命」から「行ってこい」とGoサインが出て、僕らはこうして地球上に生を受けることができた。これは人間だけじゃなく、ありとあらゆる生命が同じなのだと思う。ちょっと比喩的な書き方になったけど。
もし我々がそういう存在なんだとしたら、この人生を価値的に生きないとしたら、あまりにももったいないよね。ほかの生命に利益をもたらすために生まれてきた我々なのに、無意味に他者を傷つけたり、地球を破壊するだけだったり、人を殺したり、騙したり、傷つけたりって、あまりにも生まれる僕らの決意と懸け離れてるし、決意を忘れすぎだろって、心の底から思う。たぶん間違いなく死んだあと、宇宙生命との対峙の場が設けられ、そこで死ぬほど反省することになるんだろうな。まあもう死んでるんだけど。それを昔の人は閻魔様の裁きみたいな言い方をしたんだろうね。
ミニバスの撮影でもうひとつ毎回しみじみ思うのは、木の床でよかった、ということ。夏も冬も思うし、冬はとくにかな、僕らは体育館の木の床に腰を落としてバスケを撮るんだけど、もしも木という材質を人類が手に入れてなかったら。金属でも地獄だし、コンクリートでも死ぬほどキツい。とくに冬は、あの木の冷えすぎないぬくもりが本当にありがたいわけで。まあふつうは、たまたまそこにあった木材という材料の特質を人間がうまく利用した、って思うと思うんだけど、でもそれって木材が地球上に存在してたからこそ、できることだよね。これはひとつの例だけど、人間って自分たちの身のまわりのことを「当たり前」って思ってることが多いよね。空気中の酸素とか、植物の光合成とか、地球の適切な温度とか。
ガイア理論=地球って生きてる?
ずっと上のほうに「ガイアの知性」との出会いを書いたけど、ガイアの知性と出会う前に「ガイア理論」については知ってた。簡単に言っちゃうと、地球というのはひとつの巨大な生命体なんじゃないかって。昔の科学者たちが地球環境を調べてて。さまざまな気体の濃度とか、地球の外気温とか。継続的に調査を進めるなかで、不思議なことがわかってきた。どう考えても数値が変だ。もしかしたら地球には自然環境をニュートラルな状態に戻そうとする自律的な働きが備わってるいるんじゃないか。地球というのはもしかしたら、それ自体が巨大な生命体なのではないかって。最初の頃、そういうガイア理論はかなり異端視されてたらしいんだけど、最近では広い意味で地球が生命体であるということを否定する学者はいないとか。これも科学が仏法に近づいたひとつだと思うんですよね。
3時間くらいぶっ続けでキーを打ち続けたので、さすがに疲れました。まだβの0.7くらいだと思いますが、このブログをtwitterとfbを通じて公開しますゆえ、みなさまからのご意見を頂戴できれば、幸甚に存じます。
仏法の存在は否定しても仕方がない。さっきも書いたけど、登山道の喩えの如く、あとはその宇宙のリズムをより完璧に説き尽くした教えはいったいどこにあるのか、ということに尽きる。そのことに早く気づいて、ひとりでも多くの方々に実践を開始していただき、いまのいまから人生を大きく切り拓いていただくことができれば、こんなに嬉しいことはない。
乱筆乱文、失礼いたします。
これからも随時、推敲を重ねます。
悪しからず。
2020/9/9、多少、書き足しました。
順番がバラバラで読みにくいですよね。
すみません。なんとかします。
2023/2/27、本格的に整理し直して、読みやすくしようと決意。
読みやすく、というか、ひとりでも多くの方々に理解していただきたいと、静かに決意。
少なくとも、人を傷つけたり殺したりして、自分の利益を得ようというのは、もうやめようよ。
21世紀も23年目だぜ。薬師丸ひろ子も歌ってたじゃん。23年も生きてきたのにね。
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