御義口伝講義 英語版 序文

法華経が説き明かした
「万人成仏」の思想
「生命の尊厳」に基づく
人間主義の時代を

思えば、1962年8月、私は大学生のメンバーを対象に「御義口伝」の講義を開始した。未来への人材育成のためと、日蓮大聖人の深遠な哲学を現代に展開して、不信と憎悪が渦巻く核兵器の時代を信頼と調和の人間主義の時代へと転換させたいと深く念じたからである。

内なる変革から外の世界の変革へ

 仏教といえば、戒律や瞑想を中心とする「内なる世界」の探求のイメージが強く、「内なる世界」から「外なる世界」への働きかけという面が等閑視されてきたことも事実である。したがって、仏教を平和実現への哲学と捉える人も少なかった。
 しかし、日蓮大聖人は、有名な「立正安国論」に明らかなごとく、人間の内面の変革から始まって、外的世界の変革を実現するための根本の法理を提示されたのである。
 大聖人は、法華経を根本経典とし、人間変革、社会変革の源泉を仏や神という外的存在に求めるのではなく、人間自身の内面に通底し宇宙生命に遍在する「法」に見いだし、その「法」を開示・弘通された。
 しかし、それは当時の通念をはるかに超えていたために、法華経に説かれるとおり数々の大難に遭遇せざるを得なかった。実は、この忍難弘通の戦いが、法華経の教えが正しいことを証明し、同時に、大聖人が法華経を「身読」された、真実の「法華経の行者」であることを証明することになったのである。
 後に、身延入山を機に、大聖人は御自身の悟りの立場から、弟子の育成を図られながら、法華経を講義された。法華経の経文は、既に実感を伴って胸中にあったが、その奥義は、法華経の権威である天台大師や妙楽大師も説ききっていなかった。大聖人は、仏教の先達の教えを踏まえながら、その奥義の法華経講義を展開されたのである。
 その講義を直弟子の日興上人が筆録され、師である大聖人の御允可を賜ったのが「御義口伝」であると伝えられている。完成の日付は弘安元年(1278年)正月一日と記されている。
 法華経には巧みな譬喩や物語はあるが、哲学がないという批判がある。確かに法華経の文面だけを見れば、そのとおりかもしれない。しかし、仏教には「文・義・意」という原理がある。中国の天台大師や妙楽大師は、法華経の「文」から、「十界互具」「一念三千」「久遠実成」「開近顕遠」「開三顕一」などの精緻な「義」(法理)を引き出した。しかし、いまだ法華経の「意」を開顕することはなかった。
 日蓮大聖人は、法華経の「意」、つまり「肝心」を南無妙法蓮華経として顕され、その立場から法華経を講義されたのである。これがいわゆる観心釈であり、そこには深遠な哲学がある。日蓮大聖人が法華経に新しい生命を吹き込まれたのである。


「凡夫成仏」の原理

 「御義口伝」の構成は、「南無妙法蓮華経」から説き起こされて、法華経二十八品の各品の重要な経文を取り上げられ、天台大師や妙楽大師の解説を紹介された後に、あるいは経文の後に直接、大聖人の観心釈を示されるという形態をとっている。さらに、開結二経(無量義経・普賢経)の要文を解説され、合計231カ条に及ぶ。その上に別伝が加えられている。
 「御義口伝」の根本思想は何であろうか。さまざまな解釈が可能であるが、私は人間の尊厳、生命の尊厳をその究極において解き明かした点にあると思う。具体的には、「凡夫成仏」「凡夫即仏」の思想である。
 通途の宗教観は、人間を“聖なるもの”の下位におくものであった。しかし、人間を最高の精神的存在へと高めゆく宗教本来の精神からいえば、その人間を“神の子”“仏子”へと転換するところに宗教の存在意義がある。
 この観点を最も明確に示した「御義口伝」の一節を挙げたい。
 法華経寿量品には、釈尊の久遠成道を説いて、「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478ページ)とある。
 この「我」とは当然、教主釈尊のことであるが、日蓮大聖人はこの「我」を「法界の衆生」「十界己己」(御書753ページ)を指すと教示されている。つまり、十界の衆生がすべて本来、仏であると明かされているのである。
 もちろんそれだけであれば、「理」にすぎない。しかし、大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(同ページ)と仰せられて、題目を唱えることによって、誰人であれ、「本来、仏なり」と覚知することができると、具体的な方途を示されているのである。
 実に簡潔な表現のなかに、端的に「凡夫即仏」の原理を示されている。こうした人間観が「御義口伝」の顕著な特徴の一つである。
 また、人生は多難である。その意味で、人生は戦いであり、鍛錬であるといっても過言ではない。
 トルストイが「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」(木村浩訳「アンナ・カレーニナ」)と書いたように、人生には、肉親との死別、不治の病の宣告、倒産、失業、家庭不和など、さまざまな不幸の嵐が吹き荒れる。それが人生の実相であろう。
 だからこそ、人々は法華経の「現世安穏」の哲理に救いを求めるのである。しかし、苦難の故に人間は不幸であると決め付けるならば、幸福な人間など幻のごとき存在でしかない。
 日蓮大聖人もまた、迫害の連続の人生であられた。2度の流罪、死刑、武士や暴徒による襲撃、悪口罵詈等々、命に関わる大難の連続であった。それは法華経の説く「現世安穏」とは遠くかけ離れた実相であった。そのために、人々は大聖人が法華経を経文のままに実践する「法華経の行者」であることを疑ったのである。


「人の振舞」こそ

 大聖人は、法華経を講義されるなかで、御自身の来し方を省み、人生の実相を厳しく凝視されながら、「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書750ページ)と、法華経とは一見、反対とも見える結論を導き出されるのである。
 いな、法華経と反対の結論というより、人々が表面的に捉えていた経文の深意を浮かび上がらせたというべきであろう。
 これこそ、苦難のないことが幸福ではなく、苦難に負けないことが幸せであるとの真実の幸福観を提示されたものといえよう。
 さらに大聖人は、「涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(同758ページ)と、一切衆生への同苦と、その苦を除く大慈悲の実践を宣言されている。
 このように、自分一人でなく、すべての人々の幸福を祈り願うところに、仏法者の生き方があることを、御自身の身をもって、指南されたのである。
 さらに、大聖人は、法華経に説かれる不軽菩薩に注目された。
 彼の菩薩の忍難弘通の方軌、信ずる者も謗ずる者も共に救いきる「法」の力、万人に内在する仏性を敬う「但行礼拝」の実践――そこには「万人成仏」の思想が如実に示されている。
 その修行のあり方を大聖人は御自身の修行に重ね合わせて、民衆救済の大慈悲の戦いを広宣流布として壮大に展開されたのである。
 大聖人は、法華経が釈尊一代聖教の肝心であり、法華経の修行の肝心は不軽品であるとされた。そして「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174ページ)と仰せられた。
 この御文は、仏法の真実を、経文だけでなく、人間の行動を通して示すことに仏の目的があるという、仏法の人間主義を高らかに謳いあげている。
 一切衆生に内在する仏性を自覚させるために、あらゆる人々を礼拝した不軽菩薩の実践は、揺るぎない信念と無限の勇気から発している。
 「御義口伝」では、この不軽菩薩の「但行礼拝」について14の角度から論じられている。
 その一つに、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769ページ)とある。現代社会に欠けている非常に重要な道徳的原理である。
 つまり、自分が他者を尊敬するならば、他者も自分を尊敬するという、相互信頼、相互尊敬の精神が説かれているのである。
 現代社会における人間疎外の最大の原因は、利己主義にある。
 これは、私が歴史学者のトインビー博士と語り合った結論でもある。
 いかにして利己主義を超克するのか。仏法から見れば、人間を自己中心に追いやるのは、その生命に潜む「元品の無明」である。これは、自身の生命が妙法の当体であり、本来の自身が仏という尊極の存在であることを知らない「無知」のことである。
 その無知を滅するのは、人間の仏性、人間内面の尊厳を信じて疑わない、確固たる「信」にある。この「信」の確立こそ、今、人類が最も必要としているものではないだろうか。
 この日蓮大聖人の生命と平和の哲学を世界に広め、その信仰と理念を共有する人々の連帯は、現在190カ国・地域(編集部注=現在は192カ国・地域)に拡大している。
 生命の真の尊厳に目覚めた人類の連帯が、戦争やテロの暴力を排除し、貧困や環境破壊など、人類が抱える地球的な問題を解決する日が来ることを確信するとともに、またその日が一日も早いことを強く願うものである。
(聖教新聞2017年8月31日(木)付 学生部「御義口伝」講義開始55周年に寄せて 英語版への池田先生の序文メッセージ)

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