とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり
(法華初心成仏抄 p552)
【 通解 】
とにもかくにも、法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。どちらにしても仏の種は、法華経よりほかにないのである。
池田先生は、だれに対しても深く敬い、法華経を説き続けた不軽菩薩の実践について、こう語られた。「上手な話もしなかった。偉そうな様子を見せることもなかった。ただ愚直なまでに『下種』をして歩き回った。その行動にこそ、3世にわたって『法華経』が脈動しているのです。」
法を聞いた相手が発心する「発心下種」も、発心しなかった「聞法下種」も、功徳は変わらない。
「下種」といっても、話しにくい相手や、顔を思い浮かべるだけで、”この人はきっと、信心しないだろうな”と思う人もいるかもしれない。しかし、折伏は相手ではない。自分の一念がどうかで、決まる。
仏種を植える以外に、相手を成仏へと導く道はない。ゆえに、「強いて」と仰せなのである。これは「強引」ということでなく、「勇気をもって、粘り強く」という意味である。「手練手管も方法もなにもありません。 ただただ、自分は南無妙法蓮華経以外に何もない!と決めることを、末法の折伏というのです」戸田先生は指導された。日々、友の幸福を祈りながら、力の限りに仏法の偉大さを語っていこう。
(御書をひもとく p152~153)